プールへ行こう! (11) 〜 運動を続けるコツ 〜 2010.05.31 |
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【戦略 1】 【戦略 2】 【戦略 3】
■ 人間の本質 快感は、得られれば得られるほど、繰り返せば繰り返すほど、飽きる。 嫌な事も、繰り返す内に慣れて、その内、快感すら覚えるようになる。
これは、人間の本質部分にある不思議な心理で、嫌な運動も繰り返していると快楽に変わる。
快楽を得たいという欲求は、動物の基本動作に仕込まれた仕掛けで、 『欲求は、満たされないと膨らむ』 という欲求の性質を利用すれば、快楽化した運動意欲(欲求)を持続させ続ける事ができる。
■ 快楽 極端な例ではあるが、本能に刷り込まれている、食欲や性欲といった快楽も、満たせば満たすほど、飽きてしまい、それまで通りでは快感を感じなくなってしまう。
挙句は、生存欲すらも慣れてしまい、 『俺だけは、タバコでガンにはならないんじゃないか。ま、なったっていい』 なんて言っているが、病気などで死を目の前にして、生存欲を意識できる状況に追い込まれると、 『後悔先に立たず』で今さら手遅れながら、急にタバコを止めて、治療に専念し始めたりする。
戦争や飢餓で命を脅かされるような生活を余儀なくされるような国の人たちは、『生きたい』という欲求を強く感じて生きているが、 日本のような平和で豊かな国で生きていると、生きる事が満たされ過ぎているせいで、『生きたい』という生存欲を感じ難くなっているためだ。
■ 苦痛 『慣れ』は、苦痛にも適応される。 苦痛を繰り返し経験すると、苦痛に慣れるだけでなく、快楽すら感じるようになる。
例えば、生死の境を体験する冬山登山を、誰にも強制されていないにも関わらず、したりする。 『死にかかって、やっと生還できた』にも関わらず、また、危険で苦痛な世界を求めてしまう。
危険や苦痛といったものに快楽を感じているから、止められないのだ。 ※※ 備考 ※※ と個人的には分析しています。
多くの人が体験できる経験としては、ランナーズハイのような現象で、苦しい状況を越えると、不思議な事に体が楽になり、それまでの疲労が嘘のように、体が動き出す。 動物の死の瞬間には、その恐怖から開放されるための仕掛けがあって、死の近づいてきた苦しい状況になると、快楽物質が大量に出てくるのではないかと思います。
脳梗塞を起こした脳科学者自身が体験した『死に向かう快楽』を脳科学的に分析した本があったりして、これらの情報が私の自説の根拠になっている。
(ただし、前半は面白いが、後半はいまいち)
この『死の恐怖を超えた快楽』は、食欲、性欲といった本能的な快楽以上であるため、人間が苦しい状況に自ら向かうという行動があるのだと思います。
もう少し身近な『苦痛の快楽化現象』に、拒食症がある。 『食べたい』という欲求を満たしつつ痩せたい人が、『食べたものを吐く』という行動を繰り返して、痩せようとする。 『吐く』行為は辛く、ましてや無理やり指を突っ込んで吐くともなれば、かなり辛い。
しかし、吐く行為を続けていると、吐く事自体に快感を感じるようになって、いつの間にか、吐く事が辞められなくなる。 『痩せすぎた。もう食べなくちゃ死んでしまう』と思うようになってからも、吐く事自体に快楽を感じるようになってしまっているから、拒食症の人は死ぬと分かっていても、抜け出せない。
人間は、これほどの苦痛ですらも快楽化してしまうのだから、運動程度の事を快楽化させるのはもっと簡単だ。
■ 欲求 『欲求は、満たされると消えて、満たされないと膨らむ』という性質がある。
しかも、欲求という存在は、理性の中にあるのではなく、本能部分に刷り込まれた機能であるため、 『体が勝手に求めてしまう』 といった、自分が意識していない欲求(意識できない欲求)もある。
だから、『XXを飲むだけで痩せられる』といったような、栄養を取らない系のダイエットは必ず失敗する。 お腹一杯食べても、特定の栄養素が足りないと、どうしても食べたくなる。 体の奥底から、理性では押さえられない『食べたい欲求』が、こみ上げてくる。
同じものを食べ続けたりして栄養素が偏ると、不足した栄養素を、体が欲するようになる。 欲求は、満たされないと膨らむため、体が勝手に、満腹感とは別に、その栄養素を含んだものを食べたいと思うようになってしまう。
それを我慢すればするほど、我慢できなくなり、何かの拍子に少しだけ食べてみると、 久しぶりの快感のせいで、必要以上の快感を感じてしまい、大きく膨らんだ欲求は一気に吐き出されて、我慢する前以上に、大量に食べ始めて、止まらなくなる。 (だから、拒食症と過食症を、行ったり来たりする)
一生、我慢できるような事なら我慢しても良いが、バナナだけ食べるとか、いかがわしいサプリメントを飲み続けるなんて事は、やり始める前から、『一生は続けられない』と分かる事なのだから、 『その後の反動』を考えると、やってはいけない事であるのは、火を見るよりも明らかなのだ。
※※ 備考 ※※ と思うかもしれないが、私は、グリコーゲンローディングという手法で、この現象を体験している。
グリコーゲンローディング法というのは、 『運動のエネルギー源であるグリコーゲンを、いつも以上に大量に体内へ溜め込む事で、エネルギー枯渇によるレース後半の失速を回避しよう』 という手法で、マラソンのような長距離競技では、よく使われる食事法だ。
レースの1〜2週間前から、ご飯やパンといった炭水化物を徹底的に控えて、体内のグリコーゲンを一旦枯渇させ、 レースの3日前からは逆に、大量に炭水化物を摂取すると、体内グリコーゲンが通常より多く蓄えられるという現象を利用している。
炭水化物さえ控えれば良いので、食事は常に満腹に食べているにも関わらず、炭水化物を控え始めて数日すると、ご飯やパンが異常に食べたくなる。 『理性で、ご飯やパンを食べたい』と思うのではなく、『体が勝手に、炭水化物の入っているものをイメージさせて食べたくさせる』のだ。
従って、満腹感で満たされているにも関わらず、グリコーゲンローディングは結構辛くて、レースといった高いモチベーションがないと耐えられない。 しかも、心理的な反動もあって、しばらくは、ご飯やパンを必要以上に、大量に食べてしまうようになった。
このように、本能に刷り込まれた存在である欲求は、理性で消そうと思って消えるものではない。 消す事が出来ないものは、拒否するのではなく、逆に受け入れ、欲求の性質を知り、それを逆手に取って、利用してやれば良いものなのだ。
快楽化した運動も、満たし過ぎるとやっぱり飽きてしまい、運動意欲が失せてくる。 だから、休息も、『運動の継続』のために、重要な要素のひとつになる。 (仕事でも、休みなく働き続ければ、肉体的限界を超えて過労死するか、心理的限界を超えて自殺してしまい、結局、継続し続けられない事からも、『休む事は、継続するための要素のひとつ』である事が、分かる)
たまには、 『すごく運動したい時に、あえて家でじっとして、運動意欲を膨らませる』 といった事も良い手になるし、自分の欲求をコントロールできれば、 『自分が、自分自身を深い所で支配している快感(充実感)』 を感じる。 (他人から認めれる事は、一時的な喜びにはなっても、満たされない空虚感を消す事には繋がらない。『理性として』ではなく、『自分の存在を、自分が本能的に認めている事を、感じられる』から、空虚感を感じなくなる)
『膨らみ過ぎず、失せ過ぎず。我慢し過ぎず、満たし過ぎず』 と、自分の欲求とよく対話をして、欲求を運動に利用し続ければ、運動は継続できる。
自分の意識の奥深い場所にある欲求を見つめる事は、自分を深く見つめる作業に繋がり、結果的に、自分を知る事にも繋がる。
■ 運動を快楽化する 『週4〜5日も運動していて、すごいねぇ』 と言われるが、これは、運動をしていない人の的外れな指摘だ。
週4〜5日運動しているから続けられるのであって、週1〜2日運動する方が、はるかに難しい。 高いモチベーションとなるような、何か特別な目標でもあれば、週1〜2日という事も出来るが、弱いモチベーションの場合は、週1〜2日は、いずれ月1になり、結局は、やらなくなる。
嫌な仕事も、毎日繰り返している平日は、それほど大変ではない。
自殺率を見れば分かるように、月曜日のような休み明けは、エネルギーが充電されたはずなのに、辛く感じる。 『五月病』を見れば分かるように、ゴールデンウィークのような長い休みの後は、もっと辛く感じる。
辛い事も習慣化してしまえば、その辛さを感じ難くなるのだ。
運動も同様に、習慣化してしまえば苦痛は少ない。 週の半分以上、運動を続ければ、苦痛を感じなくなるだけでなく、『動く物』と書く『動物』本来の快感を感じるようになる。
一旦、運動を続けるモードに入ってしまうと、運動をしない方が気持ち悪くなる。 挙句には、『今日は、休もう』と思っていたのに、いつもの習慣で、ついスポーツクラブに向かってしまい、『ここまで来ちゃったから、今日も汗を流すか』なんて事になる。
ただ、このように運動が習慣化した後でも、長く休んだ後は、ゴールデンウィーク明けの仕事が辛いように、やっぱり、再開するのはめんどくさい。
出来る範囲で、嫌にならない程度に、継続する。 自分の中にある運動欲求が、大きくなり過ぎず、小さくなり過ぎない程度に、一定の範囲で維持されるように注意を払う。
運動を始める時に、具体的な目標を立てない代わりに、このサジ加減には気を使う。 (『自分の欲求をうまくコントロールする』といった、ゴールのない漠然とした事であれば、目標にしてもかまわない。)
※※ 備考 ※※ という人のほとんどは、 『これまでと同じ所に留まりたい。変えたくないという動物の習性』 に縛られ、単に言い訳をしているだけだ。
昔、『鉄腕ダッシュ』というテレビ番組で、『デブ犬を痩せさせる』という企画があった。
そのデブ犬は、散歩を嫌がり、地ベタに這いつくばって、人間に首輪で引きずられて無理やり散歩をさせられ、減らされたご飯に怒って、皿を蹴飛ばしたりしていた。 ところが3ケ月後、そのデブ犬は、見事な体型に生まれ変わり、散歩に行く気配を感じただけで、自分で外出用のリードを持ってきて人間に渡し、外に飛び出すと、人間を引きずるようにして、走り回って散歩をするようになった。
つまり、この元デブ犬は、デブる事で脂肪という重りを担いでしまい、動くのがめんどくさくなっていただけで、動くのが嫌いだったわけではない。 動くのが楽しいという快感を、忘れてしまっていただけなのだ。 動物は、動くために都合が良いように設計されていて、動かない方が辛いのだが、動く良さを忘れると、相対的に、動かない方が好きと錯覚してしまうのだ。
■ 成功の本質を知れ 『継続し続ける事に勝る成功戦略』は、存在しない。
逃げる事で、結果的に継続できるのなら、逃げる事すら許される。 (ただし、逃げる時に、言い訳はいらない。『継続するために逃げる』と前向きな理由で、逃げれば良い)
『継続し続ける仕掛け』を考え、実行するのが必勝法で、具体的な目標を安易に立てる事は、失敗者の常套手段だ。
『継続する素質。継続する能力』の前では、『生まれ持った素質』など、無力に等しい。
『生まれ持った高い素質』によって、人よりも楽に、小さな勝利を手にしたせいで、『自分の高い素質を、そこそこのレベルで腐らせた人間』の数は、 『苦難の状況から、自分の能力を、めいいっぱい引き出し、成功した人間』以上に多い。
運動を始める動機が、ダイエットであるとすれば、ダイエットを成功させるには、 『どうすれば、自分は運動(ダイエット)を継続し続ける事が出来るのか?』 を考え、実行する事が一番重要で、そこに具体的な目標はいらない。
素人が、具体的な目標を持てば、必ず失敗する。
※※ 備考 ※※ と思うかもしれないが、 『競泳選手で、インターハイにすら出れず、2浪して大学に入り、その後、25歳にして、1996年アトランタ五輪代表入りした吉見譲という選手』 がいる。
一方、高校時代の私は、インターハイの標準タイムも、1988年ソウル五輪代表選考会の標準タイムも切って出場していたにも関わらず、 『俺には、オリンピックに行くような才能はない。オリンピックに行けないのなら、水泳を続ける意味はない』 と、さっさと水泳を辞めた。
インターハイの標準記録すら切れなかった吉見譲本人に、オリンピックに行けた理由を聞いた事があるが、 『自分の才能は凡人。水泳を辞めずに続けた事が、オリンピックに行けた大きな理由』 だ。
ここまでの成功スケールではないが、 『負け続けていた人間が、継続し続けた事で強くなった。逆に、小さな勝利だけを手に入れ、継続する事を放り出し、勝てなくなった』 という例は、ゴロゴロある。
■ プロセスから目を背ける、目標重視の失敗者 失敗する人、目標を達成できない人は、ほとんどの場合、『失敗する戦略』を自ら使って、何度も失敗を繰り返している。 そんな人に共通するのが、『ゴールのある目標』を立てた挙句に、その目標を無意識で『目的』にしている。
例えば、『1ケ月で(あるいは夏までに)、XXkg痩せるという目標』を立てた人間は、 暗に、『1ケ月でXXkg痩せるのが目的』になっている。
途中で辞めたりして成功できない人間が持つ、この『スタート戦略』の本質は、 『目標を達成する事が、目的』 という戦略なのだ。
この戦略の結果は、始める前から決まっていて、
『目標が達成できないから、やーめた』 『目標が達成できたから、OK。満足。終わり。』
と、やめる理由が違うだけで、始める前から、いずれ放り出す事が、決まっている。
例えば、運動を始めようかと考えた動機が『ダイエットのため』であれば、 重要なのは、1ケ月後に痩せている事ではない。
1年後、5年後、10年後の状態が重要な事だ。 一度も痩せた状態を作り出せなかったとしても、10年後にそこそこになって維持できいれば、それは成功者なのだ。
1ケ月後、あるいは1年後に理想の体型にまで痩せられたかどうかは、まったく重要ではなく、理想に近い状態をどう維持していくのかが、戦略上、最も重要な事なのだ。 (太っている事を受け入れ、人生を楽しみ、その前向きな姿勢が陽気な顔となって表れたような人を、私は偉いと思っている。ここで指摘しているのは、『中途半端なダイエット目標を立てた挙句、同じ敗者の戦略を何度も使って、何度でも同じように失敗するその幼稚な手段(幼稚なプロセス)』を指摘している)
歩み(プロセス。線)には目を向けずに、『一度は、XXkgまで痩せた』といった『点』で結果を見た所で、言い訳くらいにしか利用価値はなく、『言い訳は、失敗者の常套手段(継続したくないだけの屁理屈)』だ。
『〜〜を食べるだけで』『〜〜を買って使うだけで』系、いわば、『すぐに結果を見たい』系の戦略を好んで採用する人は、結果がすべてであり、『結果が目標であり、かつ、目的』なのだ。 結果 = 目標 = 目的 ==> 常に破綻して終わる 結果が失敗でも、成功でも、結果を理由にして、そこで終わり。
1ケ月後には『まだデブ』でも、1年後、5年後、10年後にデブでないのなら、それがダイエットの成功であり、『10年後にデブではない戦略』が成功戦略であって、 『1ケ月後にXXkg痩せる』という目標を立てる奴に限って、『結果が出たその後を、どうしていくのか』といった長期的な戦略についての考えはまったくなく、どんな結果が出ても、いずれ放り出すわけで、それは失敗者の常套戦略(失敗者のプロセス)なのだ。
■ 目標と目的の関係 『目標』は、『目的』の単なる通過点に過ぎない。
『目標と、目的を一致させる』という事は、 『目標にガムシャラに向かった結果、目的にまでもガムシャラにならざるを得なくなり、目標達成に失敗すると、目的も見失うだけでなく、目標を達成してもなお、目的を失う』 事になり、そのゴールには、達成ではなく、失意、空虚しかない。
それは完璧主義者の思考だ。
『人生の目的をはっきり分かって生きている人は少なく、また、人生の目的が分からなくても、十分生きていける。』 のと同様に、運動を続ける事にも、明確な目標は必要なく、また、目的をはっきり認識するのは、意外に高度なテクニックなのだ。
われわれ一般庶民は、修行僧ではない。 明確な目標を立てず、ゴールのないアヤフヤな目的に向かうほうが、成功率が高い。 なぜなら、ゴールさえなければ、目の前の失敗も小さく見え、心の中には逃げる事も許される余裕が生まれ、結果的に行き詰る確立が低くなる。
少なくとも、安易に目標を立てて失敗し続けてきた人の戦略は、間違っている。 成功する戦略を考え、使うから、成功するのだ。
その成功のベースにある方針は、『継続する事』であるのだから、継続できる方法を、自分の心理状態まで考慮して考える。
継続している内に、物事を深く見つめざるを得なくなり、結果的に自分を知り、自分を知った上で初めて、目的がはっきりして来る。
結果に左右される事なく、淡々と継続する事が出来るようになって初めて、『具体的な目標を立てる効果』が良い方に出るようになり、
『目標が達成できないから、やめる。』 『目標が達成できたから、終わり。やめる。』 『目標を達成したら、次の目標を見失い、続ける目的も分からなくなった。』
といった、目的を見失うような事態は起きなくなる。 いや、目的を見失うような事態さえも受け入れ、なお継続し続けられる。
目標と目的が一致している人は、躊躇する事なく、『目標を立てない』という事を実践しなくてはならない。
目標を達成させる事に、脳みそや、エネルギーを使う必要はない。 継続させ続ける所に、脳みそと、エネルギーを使え。
そうすれば、成功の方が、勝手に、自分の方へ転がってくる。
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